昭和47年12月14日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感に叶うた氏子が少ない。身代と、人間と、達者とがそろうて、三代続いたら、家柄一筋となって、是が神の機感に適うたのじゃ、神の機感に適わぬと身代もあり、力もあるが、まめにない、まめで賢うても身代をみたす事がある、又大切な者が死んで身代を残して子孫を絶つてしまう、神のお陰を知らんから、互い違いに成って来る、信心して神の大恩を知れば、無事達者で身代も出来、子孫も続き身代も出来る、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」

 身代と人間と達者とが揃う、どうでもそう言うおかげを頂きたい、人間まず人間が出来なければなりません。どう言う人間が私は出けた人と言うかと、まあそれは色々な見方がありましょう、けれども私しは、今日はあのご祈念中に公害の事について、私お願いをさして貰いよりました、またお礼を申させて頂きよりました、そしたらねまず私自身がね、あの人に迷惑をかけないと言う所から始まらなきゃ駄目だと、ね、
 例えばうなら大きな公害を呼んでおる所の、大きな色んな会社がありますよね、成る程その会社は立ち行くかも知れませんけれども、儲かるかも知れませんけども。その儲かる事が、立ち行く事が人に迷惑をかけながら、それは繁盛してもそれは本当の繁盛になって来ない。ね、だから自分のする事が人に迷惑をかけると言う様な、あの事でない、私になると言う事がです。
 私しゃ人間が出けとる事だと思うですね。人に迷惑をかける私は今日はその事に付いてから、思ったんですけれどもこりゃ私が人に迷惑をかける、 例えば第一に久富繁雄さんとか、久富先生とか、文男先生なんかは、私の足を揉んで下さったり、色々なさらなきゃならない。なさらなきゃならんじゃなくして下さる。それが毎日の事ですから、こりゃ本当に迷惑になっとるのではなかろうか、ね、それが迷惑になっとるなら、今日を限りにこりゃひとつ、止めなければいけんなと私は思うた。ね、
 とにかく迷惑をかけてはならん、もう私自身が迷惑をかけてはならん。ね、家内に迷惑をかけてはならない、ね、けどもそこのところがです、いわゆるあいよかけよとお道の信心では言われるがです、ね、あいよかけよ、ね、親先生あなたのおかげでおかげを頂いておりますから、この位の事をこれだったら迷惑じゃないね、家内と主人の場合でも同じ事です、親と子の場合であってもそうです、それが両方から喜びおうてからのそれであるならば、それは迷惑ではない。
 まあ色々人に迷惑かけると言う事から、色々考えますと、いわゆるある様ですね、昨日の御理解から頂きますと、兎に角自分の心の中にうごめいておると言う妖しげな心はもう必ず人に迷惑をかける心なんです。成る程本当に人に迷惑かけちゃならんと言った様な所からです、私は本当に例えば今公害でやかましいなら、大きなあの会社なんかがです、そこん所にまず焦点を置いてその仕事を始めるならばです、ね、
 現在の様な公害で皆なが難儀をしなきゃならない様な事は起きて来ないと思うです。なる程自分のうちでは儲かる自分の会社では大変助かる、この頃もえぇテレビで言ってましたが、久留米に丸々と言う石油、私の知った方なんです。つい此の頃その方の事私お取次した事があるんです、石油会社の事が問題になっております、なんかえぇ食用油、色んな油を作っておられるんですね。それになんか粕の様な油をですね。
 どッか八女郡の方へずうっと捨てに行く、だから近所にもそれを大変こう問題になっとったけども、まあ押し切ってそこにそう言う油の粕の捨て場を作った所が、もうそのあたりの田から、あの小川なんかの魚なんかも死んでしまってね、あのその作物の上にまであの及ぼしておる、もうそこん所はもう兎に角あの土地が、もうブワブワする様になってしまった所がテレビに乗っておりましたがですね、只自分の店がなら繁盛すると言うか、あーおかげを頂いた。そう言う事で例えば。
 あの身代が出けたのではあっては、もうそれこそ神の機感に叶わんのですから、おかげにならん、どんなに出けても身代が、ほて身代と人間と健康と仰るが、まず私は人間が出けてからそしての身代である、なからねばならんと思うですね。どうでしょうかね、私は本当にもう今日はその事を思わせて頂いて、ね、人に迷惑をかける、まずそこから私は公害が、ね、それが平気な事にねって来る所から人に迷惑をかけて来る、それがなら公害とまでなって来る様な結果になると思うんですよね。
 だから人間が、本当に改まってそこからです、私はあの人間の生き方と、言う様な物がなされない限り、公害は尽きないと思う。ね、そりゃどんなに創った物によって、人が助かると言うてもです、ね、一部でそう言う、公害を出す様な仕事であったら、もう本当に昔に還った生き方にならせて頂いてです、ね、縮小して行かなければ、公害を無くする事は出来ないと思う、だから人間が出けると言う事はね。
 まあ色々な意味もいろんな事でそれは人間が出けると言う事はあげましょう、あの人中々人間が出けちゃる、けれども私は人間が出けると言う事は、人に迷惑を掛けないと言う事。一つ今日はそこん所に焦点を置いて頂きたい、ね、今日はあのご心願に丁度こぶ、昆布ですね海草の昆布、昆布でこう熨斗を作って中にこう帯びがしてあるですね。その熨斗が縄でこうしてある、ね昆布の熨斗がこうその中に締まっておるのが縄帯をしておる、是もやはり同時に昆布で帯びをしておかなければいけませんよね。
 それから私が頂いたんですけど感じたんですけども、昆布といやあまあ喜ぶとこう言う事ですから、喜ぶに始まって喜びに終わる一日でなからなきゃいけないと思う。ね、肝心要の所は縄帯どんしとったんじゃです喜びに終わらない。お互い信心をさして頂く者は本当にこの喜びを求めての事ですから、目覚ましのおかげを頂く時から休ませて頂くまで、本当に今日もお生かしのおかげを頂いて有り難いと、お礼を申させて頂いて朝参りでもさせて頂くもう喜びで一杯である、ね、その喜びがです、ね。
 途中で何時の間にか縄帯になってしまっておる、是ではね最後に喜びと言う事にはなって来ない。朝のすがすがしさ昼の忙しさ夜の有難さ等と言うまあ御理解頂いた事がありますが、朝のすがすがしい思いでご神前に向かう朝参りをさして貰う、有難い物一杯で帰らせて頂く、さあそこから一日の、ね、自分の御用に立ち向かわせて貰う。家繁盛子孫繁盛願うからには、いよいよ自分の仕事に忠実にならせて下さいと、言う祈りがいよいよ活き活きとして来なければならない。ね、
 所謂その昼の忙しさがです、所謂御用を忠実に頂くと言う事から、一日のお使い回しを頂くと言う事が、あたしは中を帯にする此のやっぱり賀びでの、信心での帯をする事だと思うです。それを縄帯にしておる様な事なかろうか、ね、そして夜につがみだけだけ合わせてから有難う御座いますと言いよっても、こりゃ本当な事じゃないと、ね、喜びに開けて喜びに暮れる、私は神の大恩を知れば無事たっしゃでとこう言う、ね。
 只頭で分かると言う事ではなくてです、そう言う例えば喜びの実践とでも申しましかね、朝参りそして一日の御用を忙しくお使い回しを頂きましたとか、今ん日もおかげでもう本当にヘトヘトする様にお使い回しを頂きましたとか、ね、今ん日も本当に元気で使い回しを頂いて有難う御座いますと、そこから有難う御座いますは言えるんだ。その有難う御座いますと言わば締めくくられる為にも、いかにその中の帯と言うものがです、ね、大事かと言う事そう言う生き方をこそ神様が受けて下さるんです。
 そう言う喜びに熨斗をつけた姿、それが信心生活だと、ね、朝は喜び昼はしだごだそして夜に又有難う御座いますと言いよっても、そりゃもう本当の有難う御座いますにゃならん、いや神様が受けて下さらん、熨斗にならない、ね、そう言う喜びの生活を神様へ言うならばお供えして行くと言うか、ね、そう言う奉仕を続けさして頂く所からです、ね、神の大恩をいよいよ分からせて頂く体験が、大きく広く生まれて来ると思うです。ね、それで尚かつその喜びを持って願っている、人間の事身代の事たっしゃの事、ね。
 もうだから喜びと言う物は、もう本当に増えて増えて増え抜く、限りなく増えて行かなければいけないものだと言う事が分かります。神の大恩を感じん訳にはいかん、今ん日も元気で御用にお使い回しを頂いて、健康の印である人の事をお礼申させて頂く、ね、決して人を責めませんとか、ね、人に迷惑をかける様な事はいたしませんと言う生き方が、中身になって、ね、今日一日おかげを受けた事の喜びを神様に捧げる時です、神様はそのその捧げる物をこそお受け下さるのだ、ね。
 そのお受け下さる事が、ね、またはその翌日にお返しとなって現れて来るのがおかげである。ね、神の大恩いよいよ恩を大きいものにして行く事が出来る。その大恩に応え奉る言わば生活が出ける様になる。成程一年勝りの又は代勝りのおかげを受ける事が出けるぞと仰る事がです、本当だと、ね、それを実証して行くと言う事が最近合楽で言われておる、五つの願いと言う事になるのです。ね、一日の立ち働かせて頂く上にはです、様々な事がありましょう、簡単に、ね。
 只中を忙しゅう忠実にご用さえさして貰いすりゃ良いと言うけども、もう本当にえそれが乱れたり、又は薄くなったりする様な事がありましょうけれどもです、ね、その事自体を神様の御働きと思うて御事柄として受けて行く、そりゃどの様な事が1日出けて来るかも知れんけれども、それはもう成り行きそのものである。ね、それを私共が合掌して受けながら忠実に自分の仕事に励ませて頂く。そう言う一日が終わらせて頂く時に初めて、ね、喜びに明け、そして暮れる事になるのじゃないか。
 そう言う生活をそう言う生き方を天地の親神様が願ってござる求めてござる、その求めてござるものを私共がお供えをする。そこで私共の又求めてやまないものが、その代わりに移って来ると言う事はもう理の当然の事である。ね、当たり前の事をだから当たり前と言う事になる訳であります。昨日は13日会で始めてそこの新会堂を使わせて頂きました。中々暖房も入っているし新しい机イスで気分のよい13日会でした。幾人もの方が色々と発表をなさっております。
 福岡の池田さん、沢山学生さんを預かって下宿をなさっておられます、娘さんと二人です大変熱心なご信心をなさいます。調度この78節を一週間ぐらい前でしたかね、いわゆる五つの願いが所謂打ち出された朝の御祈念、その日のお参りがあってテープでその事を聞かれた、もうそれこそまあ大変感動された翌日から出来る筈ないのが、出けるおかげを頂いた、と言うのをその一週間余りですか、毎日福岡から電車バスを利用してお参りになる。その間の体験を発表しておられましたがです。
 出けんと思うておった事が出けると言うだけではなくて、それに此の様なおかげが共のうて来たと発表しておられます。第一娘さんが全然お母さんの手伝いをしなかったのが、お参りをして帰りましたら、もう総ての事がもうキチットと出けてしもうておった。そしてそれだけの事した娘さん自身も大変嬉しい様である。まあ本当にもうこりゃお母さんがせんならん事をあんたにして貰うてと、親が賀びゃ子供も嬉しい、ね、
 この調子ならば又明日もお参りさして頂いてと、例えばお参りが出けると言うだけではなくて、そう言うおかげを頂いて親子が喜び合っておると言う事を、まあ色々体験を交えて発表しておられました。ね、所謂5と5を足せば10になると言う様なもんじゃなくて、おかげと言うものは思いもかけない所におかげが待っておる。ね、椛目の中島さんが発表しておられたんですけど、二人の子供が○少で通うて来る、たまたまその日のご理解を頂いて子供ながらにあの話合って帰ったんです、
 今日のご理解はまあ言うならば大変なご理解だと感じたんでしょう。帰ってからお母さんにチョイトそこに座って下さい、座ったらね今日合楽の親先生がこう言う話をしておられる、家族が勢を揃えてどうでも願わねばならん事と言うて、五つの願いと言うものを今日は仰った。お母さんの様に無信心でお参りしないとね、家族勢を揃えた事にならんから家族勢を揃えてお参りをしてくれとこう言うた、はあ、今んごつ無信心になっとるなら親先生からおごられるち言うてからお母さんが言うた、ね、
 だからおごられる事を覚悟で参れて言うたて言う話をしておられましたね、おごられると言う事はまだ見込みがあるからおごられるんだ、もう本当に子供に教えられますて言うてお話をしておられますね、所謂五つの願い所謂身代と人間と健康が頂ける所の言わば軌道に乗ろうとしておる姿であるね、親が子に頼むのはまだ分かるけれども、まだ小学校の6年生でしょうかね長男の方はね、子供に教えられるね、そこの中村さん食堂の、中村さんがこのご理解を頂いたその日から昼のご祈念に又参って見える、ね、
 是だけ忙しい仕事をバタバタしておるのだから、とても昼は参られんと思うておったのが、参られる所かもう朝参りそして日参りさせて頂いて、夜は息子達夫婦にあんた達もどうでん参ってくれと頼んだら、その日から息子達夫婦が夜のご祈念に参って来る様になった、嫁御も段々信心が、分かって来る様になり、息子も分かって来る様なりそして第一驚く事は、もう仕事の段取りの良くなった事に驚くと言うてお届けしとられます。ね、そのまま参ってチョット拝むじゃなくて。
 四時のご祈念に参って四時のご祈念を頂いて帰る、ね、同時に一番有り難い事は、ね、母がこの頃大変キツがって休んで言わば手を取っておったのがです、お参りを始める様になったら不思議に元気になって手を取らん様になった。成る程仕事の段取りが良くなる筈である。親にも孝行なら子供にも孝行になる、そう言う道がです、ここ5、6日も信心体験が生まれて来ておる。そう言う例えば生き方からです、ね、神様の恩大恩が愈々染み込んで分かって来る様に、ね、
 そう言う有り難い心で身代と人間と達者と言う事が願わなければならない。ね、体の丈夫を願わせて頂く、家庭の円満を願わせて頂く、いよいよ家繁盛子孫繁盛願わして頂く、ね、そこに本気でのあたしは踏ん切りを付けた所の信心からでなからなければ、神の大恩を分かると言う事はないと想う。おかげの有り難さは分かってもです、神の大恩を分かると言うのはそう言う信心が、繰り広げられ続けられて行かなければならん。そう言う喜びを持ってもう是だけおかげ頂いとるから、是でよいと言うのじゃなくてです。
 限りなくその喜びの心を持って五つの願いに取り組ませて貰う、願っても願っても繰り返し願って、ね、それに対する裏付けになる修行をさして頂きながらです、おかげをこうむって行くならばです、確かに子孫も続き身代もでけ一年勝り代勝りのおかげを受けられる所のです、おかげを実証して行く事がでける、金光大神の言われる事を、ね、実現して行く自分の家庭の中に、そう言うおかげを持っていよいよ真実の御用が出来ますように、そう言うおかげを持ってです。
 和賀心時代を創って行く所の奉仕に専念させて頂けれる、皆さんご承知のように吉井の熊谷さんはもう75、6歳でしょうか、ね、朝晩お参りになる吉井から、三里の道を毎日朝参りと夜のご祈念に参って来なさる、お月次祭の時には三回参って来なさる、昼にお供え物持って来なさる必ず、ね、そりゃもう婆さんじゃからもう家に仕事がなかけんで出けると言うけども、とてもとてももうそれこそ大変な踏ん切りをつけておかなければ出ける事じゃない、本当な覚悟をしとかなければ、出ける事じゃない。
 昨日その事を言っておられましたが、もう何ヶ月前だったでしょうか、ね、和賀心時代を創ると言う話、あの言う様な信心に私の心が段々燃えて来た時分の、お話の中に、もう是で行かなければ駄目だと。他の宗教じゃ助からん、もう仏様神様拝みさえすりゃそれでいいと、そうじゃないと、本当の助かりと言うのは和賀心にあるんだから、そりゃ仏教でもよかろうキリスト教でもよかろうけれども、ギリギリの所は和賀心を目指させて頂く事によって、人間が幸福になる幸せになって行かなければいけない。
 して見ると是は一つの宗教革命なんだ、ね、勿論血を見る様な革命ではなくてです、所謂和賀心を押し進めて行く所の言わば革命である、そう言う話を聞かれた時からです、私はその宗教革命の運動員になろうと想うたと自分で言うておられます。だから運動員ですからそりゃもう今熊谷さんがあの沢山の方達の事のお届けがあっておりましよね毎日ね、その自分達この人に助かって貰わなならんと言う人達のお届けが毎日あります。それ以来、ね、七十幾つのお婆さんがです。
 宗教革命の運動員になんなさった所が悲しいかな、足が大変弱いて言うかもう兎に角這いも立ちも出けん事なんなさる病気がある。だからこのお広前歩かれるでも、こうやっと歩きよんなさる感じで歩きよんなさるでしょう。この頃からも大変痛んだ時フット自分の心の中に感じられた事、ね、今まではそげぇん体の事やら願わんでも願われんと思いよった。けれどもです最近言われるこの五つの願いから、体の丈夫を願えと言う事からヒントを頂いてです。
 私は体の丈夫の内のこの足の上におかげを頂かなければならない、しかも歩かなければならない、ね、それは私は和賀心時代を創る、宗教革命の運動員なのだから、私に足が弱かってはおかげにならんからと言う願いをさして頂いたら、もう不思議な位に足がもう軽くそれからもう足が軽々と、お参りも出来りゃお導引きにも歩かれると言うて話ておられます。信心の賀びと言う物をです土台にして、賀びを持って回られる所の信心。それにはどうでも身代と人間と健康とが揃わなければならない。
 まず何と言うてもん人間が出来なければならない、今日はその人間が出来ると言う出けとると言う事は人に迷惑をかけないと言う事だと。形の上に置いても心の上に置いても、ね、神様の働きの邪魔にならない私と言う事なのです。ね、まず人間が出けてその出けた心で、ね、身代の事を願うがよい健康の事も願うがよい、そこから賀びに明け暮れる所のおかげ、そう言うのが今日私がご心願に頂いた、大きな昆布で出けた熨斗にねそのお互いの中には縄になっておる、中がぐちゃぐちゃになっておる。
 中もやはり賀びでよる信心の帯をしっかり締めて、ね、本当に喜びで目が覚めたなら、また寝むる時も今ん日も広大なおかげを頂いて、ね、一日中御用にお使い回し頂いた事をお礼申し揚げれる、そう言う祈りを捧げそう言う捧げるものを持って、言わば神様がそれをお受け下さる、ね、ですから神様が捧げる物を受けて下さるから、その又お返しが翌日のおかげに繋がって来る。ね、
 いよいよ神の大恩を実感する日々、しかもそれが広く大きくなって行く、ね、そう言う喜びの心喜びに明け暮れると言う、そう言う喜びの心でです、人間と身代と健康と言う様な願いが立てられる。もうこがしこ頂いとるからて言うのじゃなくて、願った上にも願わして貰う。ね、よく信心の有り難い事はその日暮らしが出けると言う事、毎日毎日本当にそのその日暮らしが出けると言う事が、有り難いと言われておりますけれども、今の合楽ではその日暮らしのおかげを頂くと言う事は有り難い。
 けれどもその日暮らしではなくてです、それこそ、ね、身代を積み上げさせて頂く程しの身代を頂かねばならない。ね、それを持って神様のお喜び頂けれる御用に、奉仕させて貰う所の言わば世界と言うのが、いよいよ広くなって行くと言うおかげを受ける、いよいよ神の大恩をもう実感する、いよいよ神の大恩を大きく分かる事が出来る、大きく解る事が出ければ出けるほど子孫も続き無事達者で子孫も続き身代も出ける、一年勝り代勝りのおかげを頂く為には、その喜びがです、ね、
 そのおかげの実証と言うものがです、身代がです大きくなって行かなければです、代勝りとは言えませんよね、私共はその日暮らしだけの、信心に甘んじてはならない。代勝りのおかげを頂けれる為にもです、どうぞまずは一つ人間を作らなならん、人間が出けるおかげを頂かなければならん、人に迷惑をかける様な事をもう平気で思うたり、したりしておる様な事はないだろうか、私は先日驚いた電話料が一万円来ておるのに、中に入っておるのは千円しか入っとらん。
 こりゃもう何時もの事ですけども、私は此の度それを聞かせて頂いて、どうした事だろうかと、皆があの電話を使いよる人達のちょっとあたるかも知れんばってんですね、入れよんなさる人もあろうばってん入れん人が多い、だからもう公用以外にはこの電話もう使わせなさんなと言おうと思いよる。赤電話があるのだからね、もうそれこそ人の迷惑なんかは、例えばここのお広前でですよ、そう言う事を平気でする人達がまだ合楽にいくらもあると言う事を、思うただけでも合楽の言わば総改まりと言う事を。
 感じなければいけませんね、それは誰が払うか、ね、昨日はご本部今度の90年に記念祭の、申し込みの日の印刷が出けて来た、そして1月30日までに払い込んで下さいと言って、まあ合楽は悠長だなーと思うた、もう他所やったらはーよ閉め切ってしもうて、はーよその千円の申し金な、例えば善導寺の教会なんかはあの善導寺の教会なんかは、あの善導寺の教会でも160名からの人が申し込んで完了してしまっておる。ね、
 だから今の調子で行くと200名お参りがあるだろうと、この頃発表しよらっしゃった。ね、例えば自分が一人例えばああ言う印刷物作る必要なんかなーもないと金をかけて、ね、人の迷惑なんかひとっつも考えていないとしか、まあこまいこまい合楽の人達はそう言う所があるですね、それを例えば神習らと言う隠れ蓑に隠れて、それをしておる様な事であってはです、ね、もう一番手元の所からもう駄目だ。
 大きな事ばかり言うておってもです、ね、もう本当に実意丁寧と言う事を言われるのに、実意丁寧にですあたし共が電話をかけたならば、電話をいくらでしょうかと言うて、 チャント電話料払うて入れとかにゃでけん、是がね今月だけじゃないですもうずうっとです、ですからもう絶対あの事務所であの公務以外に掛けよんなさる人があったら、この人がお金ばいれよったちゃなかろうかと思われても仕方がないと思うて下さい。
 こりゃまあ余談ですけれども今日から言うですね、人に迷惑を掛けてはならないと言う事なんです。徹底しなきゃいけないでしょうがね、だからもう絶対赤電話を使いさえすれば人に迷惑をかける事もない、けがでもない折角払っている人達に対してあいすまん、払うとる人達に迷惑がかかるね、そう言う様な所からもう本当に手直な所から人に迷惑をかける、人に迷惑を掛けんで済む私になる事が人間が出ける事だと今日は聞いて頂いたね、   どうぞ。